漱石のつぶやき

本日は夏目漱石の日である。しかし、その由来は、漱石生誕の日にあるのでも『坊ちゃん』刊行の日にあるのでもない。由来は、聞いて驚くことなかれ、ちょうど111年前の1911年2月21日、国民的作家が文部省からの文学博士号授与を蹴ったその日だからである。

この半年前の1910年8月、漱石は、患っていた胃潰瘍療養のために伊豆修善寺温泉に逗留していた。しかしその一夜、病状が悪化し大吐血。一時的に危篤状態に陥った。その時の状況を、江藤淳『漱石とその時代』第4部はこう記している。

「――いきなりゲエーッというような音を立てた。/これは只事ではないと思った(妻の)鏡子が、隣室の高田早苗方に来て、子供の相手をしている女中に頼み、医者に連絡しようとしている矢先、漱石はもう一度つづけてゲエーッと不気味な音を立てた。眼が吊り上り、すっかり相好が変って、鼻からは血が滴り落ちている。鏡子は仰天して、通りかかった番頭を呼び、医者に急を知らせた。その間に漱石は、鏡子の身体につかまって夥しい血を吐いたので、鏡子の浴衣は胸から下一面が紅に染まった。」

この時、漱石は800グラムの血を吐いて30分間意識を失った。医者は「幽かに消え行く脈搏を探して居る」(坂元雪鳥『修善寺日記』)という状況だった。

その場にいた誰もが「漱石逝去」を思ったが、16本のカンフル注射で持ち直し、やがて再び目を開き言葉を発した。

ゆっくり回復に向かった漱石は東京に帰り、『彼岸過迄』から『明暗』にいたる後期の作品群を朝日新聞に連載していくが、この「修善寺の大患」の半年後、明治政府の文部省は漱石に対して文学博士の学位を授与することを決めた。

この時、文部省が決めた学位は、野口英世ら4人の医師に医学博士号、漱石や幸田露伴ら5人の文学者に文学博士号を授与するというものだった。

漱石はすぐにこれを断ったが、その理由について当時の朝日新聞にこう書いている。

「余は博士制度を破壊しなければならんと迄は考えない。然し博士でなければ学者でない様に、世間を思わせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る――従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。」

漱石は「修善寺の大患」の3年前の1907年に朝日新聞社に入社。本格的な職業作家の道を歩み始めたが、その視点はジャーナリスティックだった。日本軍が駐留していた中国・満州や朝鮮半島を見て回った記録『満韓ところどころ』や『韓満所感』、小説『坑夫』などを見ればわかる。

最期まで交友関係のあった親友、正岡子規はジャーナリストとして日清戦争に従軍し『従軍紀事』を記したが、漱石の場合は随筆や小説にその片鱗を見せた。『三四郎』の最初の方で汽車の座席に座った「広田先生」が、日本は「滅びるね」と一言つぶやいた言葉が漱石の当時の日本に対する正直な見方だったろう。

当時の文部省が漱石に学位を贈ろうと決めたのは、「修善寺の大患」を見て漱石の余命はそう長くはないと判断したからではないか、と江藤淳は前掲書で推理している。漱石もまたそのことを知って学位授与を拒否したのだろうと江藤は考えている。

いずれにしても、「学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る」という事態になれば、国家発展の基となる「学問」が幅広く長く進化していくことはなくなる。「広田先生」が「滅びるね」とつぶやいた当時の日本の風潮は恐らくは「僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る」という状態に近かったのだろう。

111年後のいま、コロナウイルス対策の中心を占めている厚労省の医系技官や国立感染症研究所など日本の「感染症ムラ」は、文字通り「僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る」という状態である。

この「僅かな学者的貴族」たちの利権のために日本はワクチンや検査技術などで世界の趨勢から完全に遅れを取った。そして、肝心のコロナ対策はほとんどすべて間違いである。

「僅かな学者的貴族」たちが跋扈するムラ社会はこの「感染症ムラ」だけではない。「原子力ムラ」や「ITゼネコンムラ」「土地改良ムラ」「漁港ムラ」などなど日本にはいくつもある。

「広田先生」の口を借りた漱石が「滅びるね」とつぶやいた声はいまだに生きている。

この声を聞き取ることのできるジャーナリストはいま、日本にはどのくらい存在するのだろうか。

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