86年目の2・26

86年目の2・26はウクライナで起きている。首都キエフに突入したロシア軍は攻勢を強め、プーチンはウクライナ軍兵士に対して「その手で権力をつかめ」とクーデターを呼びかけている。現代社会でこんな光景を眺めることになるなどと誰が想像できただろうか。すでに常軌を逸している。

86年前の2・26クーデターは東京で起こった。

雪の降りしきる帝都・東京。陸軍・皇道派青年将校に率いられた1400人余りの兵は、「昭和維新」を掲げて首相官邸などを襲い、蔵相・高橋是清、内相・斎藤実、陸軍教育総監・渡辺錠太郎を殺害、3日間にわたって東京の中心を制圧した。

1936年2月26日の「2・26事件」である。この大テロリズムの前史として、32年2月9日、前蔵相・井上準之助を殺害した血盟団事件、同3月5日、三井合名理事長・団琢磨を殺害した同事件、そして、犬養毅首相らを殺害した5・15事件があった。

井上を射殺した血盟団の犯人、小沼正の供述調書を読むと、その動機の背景には昭和にはいってすぐの昭和恐慌と東北地方を襲った農村恐慌とによる農民、一般庶民の生活の窮状を打開する目的が読み取れる。小沼は事件前にワカメ売りなどをして全国を歩いていたが、そこここで見聞する国民生活の窮状ぶりは見るに忍びないものがあった。

第一次大戦後、国内の景気は低迷を続け、1927年の金融恐慌を契機にさらなる不況に突っ込んだ。30年1月、時の民政党内閣は古い経済理論、金融理論に基づいて金の輸出を解禁、為替相場を支えるため、不況の中で財政緊縮政策を採用した。蔵相は井上。これが不況を底なしにした。

血盟団に集った青年たちは小沼のような民間人、あるいは海軍、陸軍の若い将校候補たちだった。血盟団事件とすぐ後の5・15事件の首謀者は同じ人脈でつながっている。

5・15事件のあと、裁判の前後を通じて、事件を起こした青年将校の助命を求める嘆願書が全国から山のように届けられた。経済不況による生活の苦境、その状況を打開するためのテロが容認されるような空気がそのときの社会を支配していた。

これらの歴史的文脈はみすず書房から刊行されている「現代史資料」などから読み取ることができるが、思想史家、橋川文三はさらにさかのぼって、その思想の淵源を探っている。橋川は『昭和ナショナリズムの諸相』の中で、そのテロリズムの淵源を、1921年9月に財閥・安田善次郎を刺殺した朝日平吾に見ている。

明治期の不平士族的テロリズム思想に代わって、朝日は、人間らしく生きる「生存権」を訴えている。「陛下の赤子」として、富豪であろうと1臣民であろうと、そこに何の不平等があろう、本来は平等であるはずであり、そのことを証明するために自分は一個の捨石となろうというものであった。

しかし、この構造は明治国家出発のときからその国家体制のうちに内在していたものであり、そのことはつとに橋川の師である政治思想史家、丸山眞男が指摘し、丸山が学生時代以来耽読してきた野呂栄太郎や山田盛太郎らマルクス主義講座派の面々が研究し続けたところであった。

1936年2月26日、そのときの雪の東京を駆けずり回り、事件を詳細に分析したソ連(ドイツ)の研究者がいた。リヒャルト・ゾルゲである。ゾルゲが、ヘーゲルやマルクスを修め、前期フランクフルト学派に連なる社会学者であることは知る人ぞ知るところ。ソ連から派遣され、日本軍部の動向を探る使命を帯びたゾルゲは、日本に関する書物を可能な限りも読み込み、おそらくは講座派の日本農村研究に目を通していただろうことは、現在残されているゾルゲの著作を読めば理解できる。

そのゾルゲは、尾崎秀実をはじめとする諜報チームの力を総動員して、2・26事件の歴史的背景を調べた。そのときのリポートが、ドイツの「地政学雑誌」1936年5月号に掲載されている。こう書いている。

「陸軍部内におけるこの過激な政治的潮流の最も深い原因は日本の農民と都市の小市民の社会的貧窮である。――日本の将校団のほとんど50%は地方と密接な関係をもった階層の出身である。――さらに兵士のほとんど90%は地方出身である。これら農民には政治的機関がなく、二大政党も単に形式的に関心を有するに過ぎないとなると、まず最初軍がこれらの地方と都市の人民層のますます激しさを加える緊張の伝声管となり機関とならざるを得なかったわけである。この結びつきに東京師団の叛乱の最大の意味が存在している。」

尾崎の力を借りたとはいえ、同時代にこれほど事件の本質を抉り抜いた分析はほかにはないだろう。そして、私の関心を強く惹くのは、「伝声管」という表現、イメージである。政治的に、経済的に圧迫され続け、社会的にその声を発する場所のない農民、小市民の意思。それらが陸軍という「伝声管」を通って爆発的に鳴り響いた。

2022年2月26日、報道で見る限りキエフには雪はない。NATOに押し込められたプーチンは我慢ができずウクライナに大部隊を展開、力づくでクーデターを呼びかけている。ウクライナ軍兵士に呼びかけたその言葉「その手で権力をつかめ」は、まさに1936年からさらにさかもぼること19年前の1917年のロシア革命の時に叫ばれた言葉のようだ。プーチンの頭の中の歴史は100年前で止まってしまっている。

プーチンの言葉は、現代にいるウクライナ兵士の耳にとっては空しい木霊に過ぎない。ひとつも「伝声管」を通って響き渡る声とはならないだろう。

プーチンはウクライナ政府を評して「ファシズム」とも表現した。ファシズムの要諦は、分断、そして支配である。旧ソ連のスターリンとその亜流たちは、ソ連と西欧の間の緩衝地帯役を果たした東欧諸国に対して、この分断と支配を繰り返した。頭の中が100年前で止まったままのプーチンの正体はスターリンの未熟な亜流だった。

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