こんな詩がある。「女を抱きしめる者はアダムである。女はイヴである。/すべては初めて起こる。-(略)-ある流れに降りたつ者は、ガンジス河畔に降りたつのだ。砂時計を眺める者は、さる帝国の崩壊を見ている。短剣をもてあそぶ者は、カエサルの死を予感している。眠っている男はすべての人間なのだ。-(略)-すべては初めて起こるが、永遠の形式においてである。わたしの言葉を読む者は、正にそれを創造しつつあるのだ。」
1981年、82歳の時に上梓した詩集『定数』から、「幸福」という名前の詩だ。詩人の名前は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス。詩人としてよりも小説家としてのほうが著名だ。しかし、その小説の数々は小説と名づけられるべきだろうか。まさにその小説の上空を羽ばたく「幸福」の時間、小説家と読者は、イヴを抱きしめアダムに抱かれ、ガンジス河畔の水面を眺め、刻々と帝国の崩壊を目撃し続けるのだ。
あるいは、千数百年の時のあわいを彷徨い続けたホメロスは、失った記憶の果てに、その飼い犬の名前から自分の存在を思い出し、もうひとりのセルバンテスは大傑作の記憶の果てに寸分違わぬ「ラ・マンチャの男」を綴り出す。あるいは、ある男は、自身がだれかに夢見られた人間に過ぎないことを発見して屈辱に懊悩し、ある赤子は生れてすぐに王に選ばれ、両目をえぐられて四肢を断たれる。
ボルヘスは決してあわてない。怒りもしない。どうしてあわてる必要があるだろう。どうして怒る必要があるだろう。ただ、落ち着き払って物語を語り続けるだけだ。自身が読んだ無数のページに万古不易の人間の歴史を訪ね、自身が育ったブエノスアイレスの静かな街並みと、周りを囲む人々にその歴史の果ての兆しを見るのだ。こうも語っている。
「わたしの意見、わたしの判断、そんなものはどうでもいいのだ。われわれがたえず世界の未来のため、不死性のため、われわれの不死性のために惜しまず力を尽くしてゆきさえすれば、過去の名前などもはやどうでもいい。その時の不死性は個人的なものではない。偶然現れてくる名前や姓、われわれの記憶などなんの意味もないものである。」(『ボルヘス、オラル』より)
『伝奇集』(岩波文庫)、『砂の本』(集英社文庫)、『不死の人』(白水社)、『ブロディーの報告書』(白水ブックス)、『ボルヘス詩集』(思潮社)は時を忘れさせてくれる。人間の歴史の俯瞰を直観的に眺めさせてくれる。
★ ★ ★
「不死性」について、ボルヘスは別のところで、次のようないくつかの言葉を残している。それを読めば、よりわかりやすい。
--われわれにとって自我というのは取るに足らないものであり、自我心など抱いてみたところでなにもなりはしない。わたしが自分をボルヘスであると感じ、あなたがたはあなたがたで、それぞれに自分をA、B、あるいはCであると感じたとしても、そこになんら違いはない。--個人的なそれではなく、あのもうひとつの不死性はやはり必要なものであると言えるだろう。たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。--ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。
--われわれ一人ひとりは、なんらかの形で、すでに死んでしまったすべての人間なのである。ここにいうすべての人間とは、血の繋がっている先祖だけを指すものではない。--わたしは自分の父とまったく同じ声でイギリスの詩を朗読していることを知っている--母がよくそう言ったものだった。父は、シラーの詩を朗読するわたしのなかに生きている。これまでいろいろな人と話をしてきたが、その人たちもまた、わたしの声のなかに生きているはずである。そして、そのわたしの声は父の声の反映であり、父の声はおそらく先祖の声の反映だったにちがいない。以上のことから、不死性はたしかに存在すると言ってよいだろう。
--われわれはこの世界のなかで、多少とも力を尽くしている。誰しも、この世界がよりよいものになって欲しいと願っている。もしこの世界がほんとうによくなれば、もし祖国が救われれば、われわれはその救済において永遠の存在となるだろう。そうなれば、われわれの名前が人に知られなくとも、すこしも気にならないだろう。それは取るに足らないことなのだ。重要なのは、不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者の記憶のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。
--われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の死を迎えた後もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。