私が中学生の頃に熱心に聴いたレコードである。もはや大昔なので記憶が曖昧だが、最初に本格的に聴いたのは、アンセルメ指揮の『展覧会の絵』であり、その編曲者がラヴェルなので、「ボレロ」という曲を聴きたくなったのだと思う。
もし、レコード屋に、アンセルメやクリュイタンスのレコードがあればそちらになってたはずだが、これしか売ってなかったのである。それゆえ、私のラヴェルとドビュッシーのイメージは、ショルティによって形成されてしまった。
帯にあるように、グラミー賞を取ったりして、えらく評判になった録音らしいが、いわゆる「フランス音楽」感が全くない。ショルティらしい、猪突猛進の轟音である。
しかし、中学生の私に比較のしようもないので、ラヴェルやドビュッシーは、こういう音楽なんだな、と思ってしまった。それでどうなったかというと、そのあとストラヴィンスキーやショスタコーヴィッチを経て、伊福部昭と松村禎三とにはまって、日本の現代音楽を聴きまくる高校生になったのである。
そう考えると、ショルティはいつも猪突猛進だから、というばかりではなく、この演奏は、ラヴェルやドビュッシーが与えた影響の方から逆算した解釈だったのかな、という気がする。現代音楽への展開の原点として位置づけた、ということである。
ショスタコーヴィッチの交響曲7番『レニングラード』の第二楽章が、『ボレロ』のもじりであることはよく知られているが、あれこそは猪突猛進の轟音演奏がふさわしい。ならば、ラヴェルを猪突猛進でやっても良かろう。
ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』とストラヴィンスキーの『春の祭典』のオープニングが、そっくりなのは、誰の目にも明らかである。また『カンマ』というバレエ音楽は、ドビュッシーがピアノ版を作って、シャルル・ケクランが編曲したものだが、明らかに『火の鳥』の先駆である。とすれば、『交響詩 海』を、ストラヴィンスキー風に演奏するのは、理にかなっている。
しかし、面白いことに、そういう演奏は主流とは言い難く、ジョルテのレコードは、未だに変わった演奏に聞こえる訳である。とはいえ、何十年ぶりかで聴いた私には、
これこれ、これがボレロだよ!
というようにしか聴こえないのである。