レコードへの道 その5:純セレブ・スピーカーの理念と理論

 最初に「純セレブ」という概念を説明しておきたい。これはお金を使わないで、金ピカのセレブ以上の生活を楽しむ、という生き方のことである。片岡がFacebookに「セレブ・ネタ」と称して、ホテルのロビーでソファーにどっかと座り、何も持っていない手に「エア・ブランデー」を持って乾杯している写真などを時折アップしていたのを見て、安冨が「これはお金や地位といった根拠を必要としない、純粋のセレブだ」と考えて「純セレブ」と命名した。

エア・ブランデー
(https://www.facebook.com/yusuke.kataoka.14/posts/1314521218589388)

我々はこの思想に基づいて、2018年の4月10日に、「純セレブ教」というものを立ち上げて、片岡を「教祖」ということにしていた(当初は「セレブ教」と呼称していたが、女優の故・木内みどりさんからの指摘に従って教祖が改称した。木内さんは逝去後、列聖されて「聖キミドリ」となった)。この教団設立の直後に、このスピーカーを「発見」したので、「純セレブ・スピーカー」という名を与えた。アンプを含めても何千円かで、高価なオーディオを凌駕するような音を楽しめるので、「純セレブ」というに相応しいからである。

 この理念は、安冨の非線形科学や東洋の古典についての研究にも関係している。近代の科学技術は基本的に、ものごとを解明し、分析し、固定し、操作して、人間の意思に従わせようとする。しかし、実のところ世界は非線形に満ちており、このような制御をかいくぐる。(安冨歩『複雑さを生きる』一月万冊復刊プロジェクト、2020年、参照)

非線形というのは、原理的に解析できない性質のことだと考えればよいだろう。たとえば上田睆亮が1961年に発見した「不規則遷移現象」(いわゆる決定論的カオス)がその典型である。これは、次式で示される簡単なファン・デル・ポール/ダフィング混合型方程式により生み出される。

ここで、x, yは状態変数、tが時間、μ, γ, B, νが定数パラメータである。上田はアナログ計算機を用いて、μ = 0.2, γ = 8, B = 0.35 に保ち、νを変化させながらストロボ写像を観察し、世界初のいわゆるカオス・アトラクタを発見した。このアトラクタは、上田により「割れた卵」と命名された。

 この方程式の描く軌道は、初期値がどんなにわずかでも異なっていれば、その行く末は全く変わってしまう。つまり、方程式と初期値とが厳密に知られていても、その軌道を予測することはできない。上田はこれを、決定論的あるいは確定的なシステムには、秩序的あるいは規則的な現象が現れ、確率的あるいは不規則なシステムには、確率的あるいは不規則な現象が現れるのであって、両者は厳格に乖離している、と二千年にわたって信じられてきたが、それがこの発見によって破られ、確定系に不規則な現象を現れることが示された、と指摘している。(上田ほか『複雑系を超えて』筑摩書房、1999年、8~12頁)

上田が世界で初めて発見した不規則遷移現象を示すアトラクタの像。
(https://3.bp.blogspot.com/-vd3o-f7W83A/XNVZM87XwzI/AAAAAAABiv0/FF7xM-EnT2orehiIJ0AiIDLwHqUAA2AkQCLcBGAs/s1600/IMG_5804.PNG)

このような非線形的振動を、線形的アプローチによって抑え込むことは原理的に不能である。そのような努力は、目の前の問題を覆い隠すだけで、問題は別の所から吹き出してくる。大げさなことをい言えば、環境問題はその典型的で巨大な一例だ、と我々は考えている。

こういう複雑な世界に対応するには、ものごとと繋がり、緩め、人間が世界内存在として暮す、という別のアプローチが必要である。東洋の古典にあらわれる「仁」「無為」「縁起」というような概念は、こういうことを表現しているのだ、と考えている。「純セレブ」という生き方は、この思想と整合する。

 スピーカーによる音の再生もまた、非常に厄介な非線形振動である。たとえば、ユニットのコーンを磁石で振動させるだけの単純なことでさえ、多くの面倒な問題を引き起こす。この振動を引き起こす力によって、コーンは歪む。しかもコーンはどこかに固定されているので、その固定箇所から生じる張力によっても歪む。この歪みに反発してコーンは別の動きを作り出し、その相互作用によって複雑に波打つ。これだけのことで再生される音の波形は大きな影響を受ける。我々が大きなユニットを回避し、小さなユニットを指向するのは、この点を重視するからである。

しかも、磁石に対して入力される波形は、サインカーブなどの単純なものではなく、音楽や人間の声といった複雑な波形から生成されたものである。これにコーンの動きが素直に対応するのは、簡単なことではない。たとえば、ある強度のある音程の音を再生するとしても、その直前にどういう音を再生していたかによって、その次の音の再生が始まる瞬間のコーンの位置と速度と加速度は様々に異なる。この違いによって、再生音は影響を受ける。

 また、磁石を振動させると、ユニットそのものも揺れる。これを回避するために通常のスピーカーでは、エンクロージャーにユニットをがっちり付ける。とはいえ、木箱はそんなに重くはなく、固くもないので、木箱自体も振動する。この振動は話を更に複雑にする。

 その上、磁石には重力がかかっているので、話はますます厄介になる。通常のスピーカーのように箱の側面にユニットが固定されていると、磁石の運動方向と重力の鉛直方向が直行するので、磁石が水平に運動することはそもそも期待できず、複雑な軌道を描くことになる。

このように、スピーカーによる音の再生という過程は、上田睆亮のファン・デル・ポール/ダフィング混合型方程式どころの騒ぎではない複雑さを帯びており、これを線形的に制御しようというのは、原理的に不可能なはずである。オーディオ技術者は、この原理的に不可能なことに挑んできたように我々には思える。彼らは、この不規則遷移現象を、解明し、分析し、固定し、操作しようとする。

かくて、できる限り重く大きく工夫を凝らしたエンクロージャーに、重く大きなユニットをガッチリ固定し、精巧なアンプで鳴らす、ということになる。しかしこれらを統合すると、その複雑性は更に高まり、その相互作用から生じる思わぬ効果を抑制するために、工夫は屋上屋を重ねてますます精妙になり、それに応じて思わぬ効果が更に生じることになり、システムの制御は、ますます厄介になる。かくて驚くほどに高価なオーディオ機器が生まれることになる。

 これに対して純セレブ・スピーカーは、最初から制御を放棄している。基本的にエンクロージャーの上面にユニットをポンと載せるだけで、ユニットは固定すらしない。我々がユニットを上部に載せる(あるいは吊るす場合には下部に付ける)のは、重力のことを考えるからである。ユニットを側面に付けると、磁石の運動方向と重力の方向とが直交し、制御が困難になるのは目に見えている。それより、両者を鉛直方向に一致させれば、話は一挙に簡単になる。実際、そのほうが音が素直な感じがする。

 ユニットを固定しないので、音を再生するためにコーンが振動すると、ユニットもまた自由に揺れる。ここを開放することで、磁石の質量が生み出す力を、ユニット本体が揺れることで消費し、コーンはむしろ楽に鳴るのではあるまいか。

更に、ユニットを自由に振動させることで、ユニットがエンクロージャーを叩くことになり、それ自体が音を発する。また、コーンの生み出す音波によってもエンクロージャーそのものが振動する。この現象を我々は「紙鳴り」と呼んでいる。純セレブ・スピーカーは無指向性であり、どこで鳴っているかわからないという特性があるが、それはこの紙鳴りのゆえではないかと我々は考えている。つまり、コーンだけではなく、エンクロージャーもが、音源となる。

これを要するに、純セレブ・スピーカーは、ユニットやエンクロージャーの鳴りたいように鳴らせているのである。その運動を制御するのではなく、鳴りたいように鳴らせた上で、中に詰める紙や、エンクロージャーの性質を調整することで、いい感じの音を探し求める。これは「無為」という老子の思想と整合する方向性だと考えている。「鳴るように鳴るさ」というのは、こういうことである。

特に打楽器の奏法において重要で、目に見えて明解なことは「音楽的な音は、物と物が接触したのち『離れる時』に発生する」ということである。「音楽的な音」とは抽象的で感覚的だが、たとえば、車同士が正面衝突する衝撃音にたいして、手拍子をする時のような「自分にとって手が痛くない音」を「音楽的な音」と呼んでもいいだろう。

 バチが太鼓の皮に当たると、瞬間的には衝撃音が発生するが、そのタッチ(おもに速度)が適切であれば、バチが皮から離れた瞬間、皮はそれ自体が持っている振動数に応じた発音をする。そういった「歪みの少ない素直な鳴り方」に、聴き手は「自然さ」を感じる。原理的には、太鼓の皮の上にボールを落下させて自然にバウンドさせれば歪みは少ないので、打楽器奏者は手の動作の中に自然な落下とバウンドの感覚を得ようとする。

もちろん「歪み」も個性のひとつなので、たとえばロックでドラムセットのスネアドラムを叩く時に、わざと押し付けるようなタッチで叩き、歪んだ「ワルい感じ」を出すこともあるが、それは、素直な鳴り方を前提にした逸脱である。

 片岡は、幼児との音楽活動の中で、集中力の続かなさそうな年齢の子どもが、自然で素直な鳴りの音色にずっと耳を傾けたり、うっとりした顔をしてじっとすることが多いのを経験的に知っている。歪みの多いキツい音色は、驚かせ振り向かせるるには有効だが、続けると子どもたちはすぐ飽きるし、その場から離れたがる。

 「音楽的な音は、離れる時に出る」の原理は、打楽器に限らず全ての楽器に通底する。たとえばヴァイオリンのような擦弦楽器は「弓を弦に擦りつけて音を出している」のではなく、弦から弓が「離れ続けている」わけで「高速の細かいビートが持続音として認識されている」ともいえる。

 我々は、こういう「歪みの少ない」「音離れのよい」鳴り方を「いい音」と定義する。この観点からすれば、純セレブスピーカーの構造は合理的だ。それは、マクロには「打楽器のリズムの溌剌さ」として認識され、ミクロには「ヴァイオリンの音色の鮮度」として認識される。

これと対極にあるのが、スピーカーで音を作る、という考え方である。我々は研究の過程で、自分が所有していた比較的良いと思っていたスピーカーを解体した。そしてユニットを取り出して純セレブ化して、そのユニットが奇妙な特性を帯びていることに気づいた。それはおそらく、エンクロージャーの形態や機能とユニットの設計を連動させいるからではないか、と推測する。つまり、ある形状のエンクロージャーが強調しやすい音域の再現を弱くするような工夫が行われているように感じた。それゆえ、エンクロージャーから取り出してしまうと、音がおかしくなっているのである。

「タンノイ解体ショー」2019/06/14

タンノイ解体ショー

安冨はせっかくタンノイから取り出したユニットが、まったく使いものにならなかったことに激怒して、エンクロージャーを、当時通っていた牧場に運び、火刑に処した。

タンノイのエンクロージャーを火炙りにする。

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